桜幼稚園 設立
クリュッペルハイム東星学園 設立趣意書(世田谷区上野毛)
守屋東は永年の社会事業の経験やキリスト教信仰と奉仕の精神から、肢体にハンディをもつ児童の治療・教育・職業訓練を行うクリュッペルハイム東星学園をつくろうとした。これが大東学園の前身となった。
大東診療所 設立
世田谷区上野毛に開設され、1943年空襲が激化し病院に変更されるまで、肢体不自由児の教育と治療に携わった。
大東高等女学校 創設
当時の職員会議録には、戦争の影響による授業の遅れ・補習・学力遅滞対策などが記録に残っている。その内容として「全体として引き上げていく中で、得意のものをのばし・・・」とも記されている。今と変わらない教育の姿勢がみられる。
戦争中、英語は敵国語としてほとんどの中等教育では排除されていた。しかし大東学園では『津田リーダー』をもちいて英語教育が行われた。時には防空壕の中で、英語の歌や讃美歌がうたわれることもあった。「遠からず英語が必要な世の中になる」という水野重吉牧師らの教育思想がここにはあった。 転入学生の話によれば、大東に来て驚いたことは、だれもがリーダーを流暢に読んでいることだった、という。
学制改革により、大東学園高等学校に改称
中学校を併設(95年に廃止)
学制改革により6・3・3制が施行された。日本国憲法や教育基本法の制定により、教育が輝いた時代であった。
年に一度、七夕にちなんで7月7日には祝賀会、園遊会、ホームカミングデーなどの行事が終日行われた。卒業生や保護者、学園関係者が集まり華やいだものだった。 現在も形式は変わったがホームカミングデーは行われており、たくさんの卒業生や関係者の方々が集い素晴らしい会になっている。
苦難の道-危機に瀕した教育の場
広大な敷地を有する大東学園だったが、理事・守屋哲之介が多額の債務を抱えることになった。そのため悪質ブローカーにより美しい校舎と校地はたちまち奪われてしまった。教師は「教育権は財産権に優先する基本的権利だから、学校は借金の形に取られることはない」と信じ「大東学園の教育を守る教職員の会」がつくられた。「守る会」は保護者・卒業生・生徒・関係者など多くの方々の支援を受け活動した。運動は急速な広がりをみせ、TBSは長時間の報道番組『バリケードの中の少女たち』を放送。NHKもニュースで、日本経済新聞でも大きな記事として掲載した。
再建へむけて立ちあがる大東
結果として、一部の小さな施設を確保し教育を続けることになった。嵐をくぐって廃校を阻止した大東学園には6教室だけの“校舎”が残った。この出来事で、「財産権よりも教育権が優先することを証明したこと、校舎ではなく人間が教育を担う」という確信を得ることができた。
〜81年
再建されて着実に広がる校舎
苦しいながらも再建は進み、上野毛の東館の隣地を買収し増築。中町に新校舎も完成した。
新天地、希望ヶ丘へ(現校舎)
クリュッペルハイム東星学園創立以来49年の歴史を刻んだ上野毛と中町から、希望ヶ丘新校舎に移転。 「開かれた学校」をめざし『二者協議会』(生徒と教職員)が発足した。